すでに実家を引き払ったため、帰郷して拠り所となる場所はないのだが、犬が一緒なので入れるところ・泊まれるところに制約があり、結局は実家があっても同じだ。
秋の連休に自分の誕生日祝を兼ねて1年以上ぶりに帰省した。

墨俣一夜城↑。

大垣城↑。

岐阜城↑。
水門川と四季の広場↑。

水がこんなに綺麗でおどろいた。

伊吹山↑。

養老山脈↑。
養老にあるお墓参りに行き、墓がとても苔むしていたので掃除した。
他にも、通った高校、中学、小学校、保育園(こどもえん)、住んでいた家の近所を巡った。

名古屋城↑。
また、初めて千畝記念館にも行った。


とはいえ、犬連れでは入れないので、その前の広場を散策。とても天気がいい日だった。
高校3年の夏。杉原千畝の英文冊子を和訳する課題があった。ほとんどの単語を辞書を引いて訳し、物語の全容がわかったその瞬間、あまりに感動して「千畝さんのように人を助けたい!」と母に言った。すると「何いってんの。まずはお母さんを助けて」と言い換えされてしまった。
理想と現実を思い知らされ、悔し涙を流した。まるで戦後の子どものような話だが、それくらい余裕がないなかでの生活だった。
県外の大学に進学したあとも、進路を決めるときも、就職するときも、ずっと経済的な自立以上に母をいずれは背負わないといけない、という基盤づくりの生活と、本来の自分の理想・夢との間で試行錯誤した数十年だった。
とはいえ、母には十分にしてもらっていた。進学先を決めるときに、国公立の獣医学科を狙っていたが、自分の実力では私立の獣医学部しか入れない。そんなときも、行きたいなら応援するよ、と言ってくれた。そこまで母に甘えられないと思い、理系だが隠れ文系としてその後生きることとなった。
それでも、まぐれで受かった国立教育学部ではなく私大の国際関係学部を選ばせてもらった。このまま安牌な生活を送れば高校の続き(詰め込み学習)で面白くもない安定のためだけの人生になる。それ以前に無事その4年間、詰め込み続けられる気がもうしなかった。ランクを下げても、マイペースで努力次第で先が面白くなるような人生。そして、エリート街道はもはや無理なので、そうなると一般的なコミュニケーション能力の向上の必要性も感じていた。大学では高校時代にはいない、知力よりも性格の優れた学友たちに揉まれることで育てていこう。むしろ街道から脱落した今、それしか道はない。大変そうだが、自分にかけた。だから、経済的負担のかかる私立を選ばせてもらっただけでも、本当に母に感謝であった。
この時、自分のなかで自分と約束した。必ずこの選択を正しいとすることを。
正直、出身高校の同級生たちに言うのも憚られる標準偏差値あるかないかの私立だったので、なんとか浮上しないと部活のみんなに顔向けできなかった。
長い時間かかったが、迷い悩みつつも一進一退とスモールステップを繰り返しながらなんとかキャリアアップし、自己肯定したあとの、初めての帰省となった。その帰省先に母はいない。昨年母が同行した旅行先で倒れ、誰かとの同居が必要になり私のいる東京の家に呼び寄せ、いまは区内の老人健康保険施設でお世話になっているのだ。老健施設にお世話になるまで8ヶ月行った自宅介護が死ぬほど大変だったが、それをしたために自己肯定できている面もあるので、実家がなくても晴れ晴れとした気分だった。
旅の前に伊吹山ドライブウェイのホームページを見たら、俳句募集がされていたので、いくつか投函した。
中学三年のとき、夏休みの自由課題で自分で作った俳句を自分で評論する句集を作成し、銅賞をもらったことがある。当時、普通の教科はそれなりにできたが、自由課題は小さい頃から大の苦手で、賞をもらったのは初めてだったため、本当に嬉しかった記憶がある。さらに、その同じ年に市の俳句大会で特選をもらったことも思い出した。俳句が私の拠り所となるかもしれない。
地元大垣は、松尾芭蕉奥の細道結びの地である。

自分の宿題を年月かけて終わらせた今、今後は俳句等を詠んで、一休さんのように享楽的に生きてみたいとも思っているのである。

もちろん、旅の友にはワンたちを連れて。子連れ狼ならぬワンコ連れ風流人として。(理想)